キースジャレット/ケルンコンサートからの随想

キース・ジャレットというジャズピアノの偉才に、「ザ・ケルン・コンサート」という、彼の作品中でも特に著名な音盤があります。名盤中の名盤といわれていますが、ジャズ通の人の中には全く評価しない人もいるらしく、この作品に対する評価の振幅に驚かされます。 キース・ジャレットは、マイルス・ディビスのバンドに在籍していた経歴などから、一般にはモダンジャズのピアニストと目されていますが、幼少期におけるクラシックの優れた素養やジャンルを越えた音楽表現活動などから、もっと広い意味での現代の偉大な演奏家と見られているようです。そんなキースの幅広い音楽活動の中でも、特に彼を性格づけているのは、1972年から始められた完全即興演奏によるピアノ・ソロのコンサートです。この「ザ・ケルン・コンサート」も1975年にリリースされた即興演奏ピアノ・ソロによるアルバムですが、その前にリリースされた「キース・ジャレット・ソロ・コンサート」は、1974年度の《ジャズ・ディスク大賞・金賞》を受賞しています。1945年生まれの彼が、この2作によって若くしてその後の演奏家としての評価を決定づけたほどの演奏といえるようです。ところがこの「ケルン・コンサート」の日も、「ソロ・コンサート」収録のブレーメンのコンサートの日も、彼は体調が非常に悪く、中止も考えたほどの悪条件だったらしいのですが、結果は全く逆で、すばらしいソロ・パフォーマンスが、音楽が、そんな時なのに、あるいはそんな時ゆえに生まれたことになります。

そこで、今回は何故そうなるのかの考察をテーマにします。音楽に関しての素人が、そんな難解な問題について何かを語る僭越は十分に承知していますが、素人だからこその直感もあるのでは、と勝手に決め込んで話を続けます。

まず「ザ・ケルン・コンサート」を最初に聴いた印象は「すばらしい!」。そして心地よい高揚感でした。もとより素人の強みで、モダンジャズとして、あるいはクラシックとして聴いたのではなく、単に「演奏」、または「音の連なりと構成」として聴いたことだけは確かです。繰り返し聴き、何回聴いても心地よい音のシャワーを浴びているようで気分が洗われたり、魅惑的な旋律が聴くたびに違うところで立上がって来て新鮮な感動を覚えたりしました。その後いくつかの彼のアルバムを聴き、「ソロ・コンサート」も良いと思いましたが、やはり「ケルン・コンサート」が一番美しいと感じた思いは変わらなかったのです。そして「ソロ・コンサート」のアルバム解説書を読み、その中に在った彼自身の言葉、「……。最後に私は、自分の目的は何か、そして私はどうすべきかという、自分自身の立場を明確にしたいと思う。私は”芸術”を信じない。その意味では私はアーティストではない。私は私達が存在する以前にあった音楽というものなら信じる。その意味ではおそらく私はミュージシャンとはいえない。私は人の営為を信じない。しかしこの問題を本当に深く考えた人なら同じ気付きをするだろう。私は自分が創造ができるとは思わない。しかし創造の神との回路を保持することはできると思う。私は創造の神を信じる。事実この演奏は、可能な限り人為を離れようと心がけている私という媒体を通じ、創造の神からあなたに届けられた神の音楽である。……」というような意味だろう、と思われる一節に出会った時、突如ある言葉が浮かびました。

それは道元禅師の「身心脱落/しんじんだつらく」という禅語。ここで禅の話をするのはテーマではなく長くもなるため概括的に書きますが、「身心脱落」とは、身も心も一切のしがらみから離れ、心身共に自由でさっぱりした境地に入ることをいい、座禅の時に”要”となる心身の状態です。いわば悟りの境地への道程であり、ざっくばらんにいうと、「仏の世界への回路が開けた状態」とでもいえるかもしれません。

さて、話をキース・ジャレットに戻します。彼は幅広い音楽ジャンルでの蓄積と、それらを神秘的にクロスオーバーさせることによって美しい音を紡ぎ出していますが、彼自身の言葉にあるように、可能な限り人為を抑えた媒体として、創造の神からの音を引き出そうとするのが彼の演奏姿勢です。人は身体状況が良いと思わず意識が前へ前へと働き、調子が悪いと意識の作為性は減少します。そして、いかに体調悪くとも彼ほどの名手になると、ピアノ鍵盤に指が触れた瞬間に静かにみなぎる”気”によって無我で感応力のある心身状況に入ったと思われます。「身心脱落」に近い状態です。体調が悪いゆえに、期せずして彼の目指す状況、つまり、彼という媒体が内に蓄えた豊かな音楽的素養と、創造の神の英知とが、理想的なかたちでコラボレートする忘我の時が流れ始めたのです。演奏冒頭の絶妙な調べがこれを証しています。これこそが、体調不良ゆえに記念すべき名演奏が生まれた秘密ではないかと思えてなりません。

「ザ・ケルン・コンサート」を聴いていると、感動的な美しいデザインに出会った時と同じ昂りを感じます。その底には、自己の感性の表現をひたすら追求する純粋芸術ではなく、多くの人々の感性への訴求を使命とする”デザイン”に通じる、何かがあるのかもしれません。