梅に鶯、ホーホケキョ。

梅の花の蜜を吸うメジロ。

隣の家の冬枯れの庭に、そこだけがピンクに花をつけた梅の木がある。
その木に5羽ほどの小さな群れがいて、その中に細身に見える小鳥がいた。そこには、メジロやシジュウガラなどの野鳥の群が時々やってくるのは知っていたが、尾がすらりと長いその鳥は、今までに名前を意識したことがなかった。

少年の頃、小鳥を飼うのが流行った時期があって、カナリアやジュウシマツなど家禽として小鳥屋で定番の鳥では飽き足らず、捕りモチを持って野山に出かけたこともあるので、多少は野鳥の名前も知っていると思っていたのだが、その小鳥の名は知らなかった。

メジロやジョウビタキなら羽毛の色柄ですぐにそれと分かるのだが、どちらかと言えば、縦ストライブ感が意識されるようなモノトーン寄りの色合いである。一見ではセキレイのような感じであるが、セキレイはあんな風に群れたりしないように思うし、その鳥はもっと小さく動きも違うように思える。あるいは少し遠目の距離なので判別がつかないのかもしれないと気になるので、ネットで日本の野鳥を調べてみたら、エナガという小鳥のように思われる。ヤマガラやメジロなど異種の小鳥と混群することがあるらしいから、おそらくエナガなのだろう。それであれば、それほど珍しい鳥ではないらしく、野鳥の名を知っているようで、意外に名前を知らない鳥もいるのだなと、少しガッカリした。

どうも私達は、知識のどこかにヌケがあったり思い込みがあって、基本的なことを知らなかったり間違った常識を持ったりするようだ。テレビのクイズ番組などを見ていると、恐ろしく何でも知っている人がいて驚くが、そういう人は天才で、私だけでなく平均的な人は思い違いが知識になっている事が多いのかも知れない。例えば「梅にウグイス、ホーホケキョ」と言って花札の絵を思い浮かべ、大方の人は、梅の花とウグイスがセットであると思っているが、実は違っていて、梅の木とセットで日本画などに描かれる鳥は、花の蜜に集まるメジロであり、警戒心の強いウグイスは声は聞こえても姿を見せることはほとんど無く、蜜を求めて梅の花に寄ってくることもない。そもそもウグイスの羽毛はメジロのような黄緑色(柔らかな萌黄色)ではなく、もっと灰色や茶色がかった渋い色である。そのため“うぐいす色”と言われるている色も、メジロのような渋味のある黄緑色と思っている人も多いのではないだろうか。あるきっかけで思い込みをしたのが刷り込まれ知識として定着した例と言える。

ところで私は、子供の頃から、カナリアやセキセイインコなど外来種の小鳥や一般的な飼い鳥よりも、野鳥の方が好きだったのだが、それは鋭角的な動きをする野鳥の所作に魅せられたからだった。そのキビキビとした姿には、今はもうあまり見かけない竹ヒゴで作られた長方体の鳥カゴの簡潔な美しさが大変似合っており、洋風のメルヘンチックな鳥カゴは似つかわしくなかった。だからシンプルで透視感のあるあの方形を見ると、小刻みに動きまわる野鳥の姿がオーバーラップされて、野鳥やその鑑賞が好きなのか、そのための道具である鳥カゴが好きなのか判らないくらいであった。状況(楽しい気分など)と「物」が転倒しているのである。

よく言われるのだが、仕事とその道具は切り離せない、プロは道具にこだわるとか言って、一般の人でも道具の方に思い入れをし、道具が揃うと知識や技術が成就するように感じる人は多いようだ。人類は道具を使うことによって進化してきたのだから、遺伝子の中にそういう傾向が潜在しているのは当然と思うのだが、この人間に有りがちな「状況と物の転倒」という傾向が、間違った知識や想いを植え付ける原因の一つになっているとも思う。とはいえ、だからこそ“物が売れて”世の中が活性化するのだが…。マーケティングの用語で「べネフィットへの訴求」というのがあって、つまりは「物自体の特色などを売り込むのではなく、顧客のべネフィット(利益=嬉しい気分になることなど)を売り込め」というものだが、これなどは、人間がもともと無意識に犯している「状況と物の転倒」という傾向に対し、再び逆転させて原点に訴求しているのだから、効果のあるのは当然とも言える。

梅の花も咲き春めいてきた昼さがり、なんとも気持ちがよい。「ホーホケキョ」と実に春らしく可愛いウグイスの声も聞こえてくる。ここまでは「梅に鶯、ホーホケキョ」で間違いないのである。ここまでは春の風情を愛でている「状況」である。そこに蜜を求めてメジロが飛んで来た。いかにも春らしい綺麗な萌黄色である。梅の花の薄紅色にピッタリで一幅の春の絵になった。つまり「物」になった。かくして、春を愛でる気持ちの象徴のウグイス(声=状況)は、絵の中でメジロ(姿=物)に転換し知識として定着した。